ご祭神

魚吹八幡神社 ご本殿 品陀和氣命(ほんだわけのみこと)(応神天皇)・息長足比賣命(おきながたらしひめのみこと)(神功皇后(じんぐうこうごう))・玉依比賣命(たまよりひめのみこと)

品陀和氣命(ほんだわけのみこと)

(応神天皇(おうじんてんのう))

息長足比賣命(おきながたらしひめのみこと)

(神功皇后(じんぐうこうごう))

玉依比賣命(たまよりひめのみこと)

由緒

神功功后(じんぐうこうごう)摂政(せっしょう)三年(二〇二年)大陸交渉の際、御鑑を当宇須伎津(うすきつ)に御滞泊あらせられた際、皇后信託(神様のお告げ)をお受けになりこの宇須伎津の浄地を開き、一小社を建立し、玉依比賣命(神武天皇の御母、海の神様)をお祀りし、敷嶋宮(しきしまぐう)と号した。
これが当社創建の起源であります。

後に十六代仁徳天皇七年(三一九年)八月、天皇霊夢を御覧になり、御父応神天皇御祖母神功皇后を当宇須伎津に祀るべし、と仰せになり、紀角宿禰を遣い三神を合せ祀られ、この地にお鎮まりになりました。
ここに当地方開闢(かいびゃく)の産土神として、祭祀信仰が今日まで、脈々と受け継ぎ生き続けていることは御神威の千古にわたる輝きを知ることができる。

御神徳

全国八万神社のうち、八幡の神は約二万五千を数え、神明社(しんめいしゃ)(お伊勢様)、稲荷社と並んで代表的な神社とされている。
その根本を九州宇佐八幡宮とし、奈良時代には、早くも皇室の厚い信仰を得た。
後、平安時代には京都石清水八幡宮が勧請された。特に両宮にあっては歴代皇室の崇敬厚く伊勢の神宮に次ぐ、我國第二の宗廟(そうびょう)として、御神徳が与えられた。当社も、中世においては、石清水八幡宮別宮の一つと数えられた。

応神天皇、神功皇后は共に、大陸交渉に伴って、大陸の様々な文化、技術を輸入し、古代にあって、日本の文化の飛躍的な興隆をはかられた。更には、神功皇后は、仲哀天皇崩じて後、六十九年間にわたり、摂政として、御子応神天皇を輔(たす)けられ、百歳まで生きられたと伝えられている。このことから、延命長寿の神、ひいては、厄除開運の神として信仰され、交通安全の神とも仰がれている。

神功皇后は、応神天皇の御母で両神の関係は、母と子となり、日本の古い信仰に、聖母信仰(自分の替りとして、御子をこの世に下される信仰)があり、母が子供を抱きかかえ、慈愛を以ってこれをはぐくみ、育てる大愛お本願とされている。このことから安産子育ての神としても信仰が厚い。

神話と伝説

魚吹(うすき)の由来について、播磨國(はりまのくに)風土記(ふどき)には宇須伎津と見え、本来、当地方は海べりの砂堆積地であった。
神功皇后伝説と相交わり、魚が群れをなして砂を吹き寄せて、土地が出来たと云い伝えられている。
これは洋の東西を問わず語られる神話的方法で、魚は人とおきかえ、すなわち、多くの人々が、海を埋め埋めして開いていったと解するが自然であって、後生永く伝えるため、魚吹伝説として今日まで云ひ伝えられた。
又、網干(あぼし)の地名も、当社祭礼に、漁民が一斉に、休漁して網を干して参詣したので網干と云うようになったと伝えられている。